ぴんく色のゴミ箱

pwnのことは一切書かないし大嫌いです / 書いてあることは全てフィクションで事実は一つもありません / このブログに筆者は存在しません

抹茶ラテの話をしよう

23年生きてきた(もしかしたらもっと生きているかもしれないが)。これだけの間生きてきて分かったことはたった一つ。本というのは素晴らしいものだ。何故なら本を読んでいるときは本を読む以外の事をする活力を与えてくれる。

03月08日。火曜日。朝08:30起床。最近はどうも朝起きることができない。バイトがある日は問題ない。気持ちの問題であろうが、起きたらすぐに布団を出て、顔を洗い、服を着替え(最早外に行く用事なんて殆どない今日この頃、着ていく服を選ぶ手間なんてものは既に忘れてしまった)、朝食を食べに行く。最近の朝食はずっとすき家のカレーだ。美味しいは美味しいが、特に特筆することはない、普通のカレー。レジで財布を取り出し、600円を払ってレシートを備え付けのゴミ箱に捨て、店を出る。いつもどおりの早足で帰路につくと、必ず1回信号に捕まる。信号を待っている間に近くの自販機で白いカフェオレとモンスターを買い、モンスターは左手に、カフェオレは右のポケットに(コートの左のポケットは中が破けてしまい、小さいものを入れるとコートの生地内部に落っこちてしまう)入れ、右手でポケットの中の家の鍵を手に持つ。なんでこの時間に高校生が道を歩いているんだろうと考えていると信号が青になる(この時、赤色の信号は必ず青色に変わるという事実に安心する)ため、歩を進めて家に帰る。家につくと被っていた帽子とマフラーとコートを脱ぎ捨て、モンスターを冷蔵庫に入れ、ポケットから白いカフェオレを取り出して飲む。1/3はその時に飲んでしまい、残りの2/3は最近買ったL字デスクに置いておく。こうしてなんでも無い日の朝は終わる。

大学4年間が終わったという事実についての話をしよう。

およそ3週間ほど前に卒論を提出した。大学の全過程が終わり、今は春休みのようなものの中にいる。直近では大学院の入学手続きをしなければならない。証明写真を取ったり銀行に行ったりしなくてはいけないのだが、どうも気持ちがのらずにやっていない。 大学4年間を考えてみると、加速度的に面白くなくなっていく4年間だった。教養学部の2年間を終え、後期の学部を選ぶ試験で成績が振るわず電気系に行き、電気系の中でも情報寄りの研究室に行こうとすると失敗して電気系の研究室になった。研究室自体は比較的(比較対象を知らないからこの表現は正しくないかもしれない)良いところで、先輩は親切で、教授はフランクで放任的で(結局卒論を書いてから提出するまでの間、教授に書いた卒論を1度たりとも見せることはなかった)、同期の中には一緒に徹夜して実験に付き合ってくれる人もいた。先輩の一人には本当におんぶに抱っこな程面倒を見てもらったし、その他の人にも全く一から何かを教えてもらうということが多々あり、この点はひたすらに感謝している。大学院入試は8月にあった。電気系の研究室というものは、4月に配属され、6月下旬頃にテーマを決めた後、およそすぐに院試の準備のために研究室に行かなくなる。大学院というのは複数受けて落ちた場合に備えるものらしいが、自分は情報関係の大学院を選び、研究室は一つしか志望しなかった。特段興味のない研究室に在籍することのしんどさは、身を持って体感したからだ。6月当時は、周りの人に違う専攻に行くことを言っていなかったため、先輩たちは同じ専攻なら大して苦労もかからずに通るから大丈夫と言っていた。そんな中、7月頃自分は他の専攻を受けると研究室で話した時に、残り数ヶ月しかいない研究室のことよりも、今は院試のための勉強に力を入れたほうが良いと言ってくれた先輩のことが印象に残っている。結局院試期間はCivilization6にハマり、数学では大こけし、面接で研究室を1つしか受けていないが落ちたらどうするのかと聞かれた時に、その時考えますと素っ頓狂な事を答えたりしたのだが、なぜだか院試期間中のことはあまり覚えていない。ただ一つ言えるのは、これまでの人生の中でも数えられるほど全く面白くない期間の1つであったということだけだ。 院試の結果が出て、先輩からもどの研究室に行くのかを聞かれ、自分が他専攻に行くことが他の人にも知れ渡ったあたりから、研究室生活はそんなに苦でもなくなった。おそらく、自分が電気系の知識が殆どないこと(これは高校の時から変わらないのだが、自分が最も苦手な分野は皮肉なことに電気と光の分野だ)や、そもそもに他専攻に行くことが先輩に知れ渡ったためか、先輩に何かを聞くと至極基礎から教えてくれるようになった気がする。情報よりの話を振ってくれる先輩もいたし、来年以降はいないことを前提にいろいろな説明を最適化してくれる先輩もいた。結局最後までこの分野に興味を持つことはできなかったが、これは恐らくひとえに自分の責任であろう。得たものは無いわけではなく、研究室内では先輩でも同期でも本当に真摯に研究に向き合っている人が多く、勿論頭もよろしく、こういう人たちがアカデミアに残るべきで(最初から自分は残るつもりはないが)、表面をかじって嬉々としている自分では到底及ばないんだろうという確信を持つことができた。これだけでも、全く意味がなかったわけではないと言えるであろう。

大学4年間での最も大きな出来事はなんだったのだろうか。きっと、1年の時に学部同期がパソコンカタカタサークルに入れてくれたことなのかもしれない。けど、この辺は書くのがめんどくさいから書かないでおこう。

ミラノサンドCの話をしよう。

08:30に起きて朝食を食べ、そのままパソコンの前に座ったのだが、何をする気分も起きなかった。1週間ほど前までは、何かをしたいが何をすればいいかわからないという状況だった。きっと研究室生活で自分の興味とは異なることを長らく続けてきた代償だろう。知人とDiscordで通話し、今の自分の興味とスキルセット的に春休み中に可能な暇つぶしを話し合った。それで、春休み中はおそらく暇で死ぬことはないであろうという状態まで案を出すことはできた(暇で死ぬというのは、比喩でもなんでもない。おそらく退屈は人間を殺す)。だが、今日の昼前の自分はまた違った状況に置かれていた。やりたいことも、具体的に次に何をやるかも決まっている。自分でソースコードを書く用のVSCodeと、参照プロジェクト用のVSCodeを2つ開き、プロセスモニタ(PCを買い換えるまでは自作のプロセスモニタを使っていたのだが、現在使っているPCとは少し相性が悪く、かといってコードを修正する気分にもならなかったため、プリインストールされているGUIのプロセスモニタを今は使っている)をサブディスプレイに、エディタをメインディスプレイに置いた(ワークスペースを横置きにしたGNOMEは反省すべきだ)。CPUの24コアの働きを軽く一瞥し、kernelを開いているVSCodeはインデックスのために6GBもメモリを食っているなぁと思いながら、お気に入りのこるねキーボードに両手を置く。ここで異変に気づいた。全く以って何もやる気が出ないのだ。これまでもやる気が出ないことは多々あった。というよりも、それがここ1年間は常であった。それは大概の場合、すぐ次に何をするかが決まっていない場合である。こういう場合には、朝起きるにも憂鬱で、次に何をするか決めている間に一日が終わってしまう。だが、今日はすぐ次にやるべきことが決まっていて、実際にキーボードに手を置いているのにも関わらず、全く脳も手も動かなくなってしまったのだ。

もしかしたらそれは2つしかないディスプレイのせいかもしれないし、少し背が高すぎる椅子のせいかもしれないし、全く機能性のないゴミ箱のせいなのかもしれない。だが、やるべきことが決まっているのに何もやる気が出ないという事実に、しばらく呆然として固まってしまった。そうしている内に昼になってしまった。この間にしたことはと言えば、HHKBの電池を取り替えたことくらい。最早今の自分にできることなど何もないと、寝ることにした。二度寝は毎日のようにするが、朝食を食べPCの前に座ったのにもう一度眠るということは、自分にとってはほとんどない経験であった。そういったことが、ここ1週間は多発している。起きると16:00になっていた。少しだけ日が長くなってきた東京の町並みはまだ明るかったが、16:00なんて後は終わりに向かうだけの時間だ。今日という一日を諦めた自分は、何も考えず財布とコートを手に取り外へ出た。特に何をするあてもないが、散歩は睡眠と並んで人間に必要な要素のひとつだと信じている。目的もないまま歩を進めた。幼稚園くらいの子供をチャイルドシートに載せた自転車と7回すれ違い、路上喫煙をする高齢者を2回追い越し、エルモ柄のパーカーを着た女性2人組に1回追い越されたところで、ショッピングモールのようなところについた。思えば、引っ越してからはこういった色んな店が集まっている場所に行くことなんて殆どなかった。少し高揚して中に入り、すぐに書店を見つけた。最初はレジャーコーナーに向かう。雑誌なんてものは、髪を切りに行った時に建前上読むくらいのもので自分から読んだことはない。だが、釣りだったり山登りだったりの趣味を作りたいという思いから数冊の雑誌を読んでみた。雑誌で紹介される山や海や川はどれも魅力的だが、実際にそこに向かうまで課程や道具を整える準備を考えてしまうとどうしても憂鬱になってしまう。結局大した収穫もなく雑誌コーナーを後にした。続いて向かったのは新書コーナー。おしゃれを気取った表紙のハードカバー本が大量に並んでいた。好きな作家もジャンルも持っていない自分にとっては、タイトルのみが本を選ぶ時の基準となる。気になる本は何冊あったが、ハードカバーの本はどうしても読む時の不便さを思うと買う決断ができない。そのまま惰性で文庫本コーナーに向かう。時間はたくさんあったから、置いてある本のタイトルを一つずつ頭で反芻し、気になる本を探していった。思えば、本というのは素晴らしいものだ。時に本は食べる活力さえ湧かない自分に食欲を与えてくれる。時に本は、静寂という価値のある時間を提供してくれる(この場合、本の中身は重要ではなく、静寂の中何もしないという行為に対して正当な理由付けをしてくれるという点でのみ価値を持っている)。時に本は、読み終わった時に本の内容とは全く関係のないことに対する活力を与えてくれる(これもやはり、「何もしない」という行為に正当な理由と相応の時間を提供してくれるからであろう。何もしない時間というのは、何かをするという行為に対しての活力を与えてくれるが、本当に何もしないという行為は、それ単体として実行するには非常に難しいことなのである)。本を読むことが、今の自分にとってなにか助けになるかはわからないし、本なんてものにそんなことを期待してはいけないと分かっている。だが、ここ1年間は本を読まなすぎた。それだけでも本を購入する正当な理由になる。結局、直感で数冊を選んで購入し書店の外に出た。

そのまま散歩を続けると、近くにドトールがあった。高校生までの間に行ったことのある店が世界の全てである自分にとって、ドトールは数少ない選択肢の一つである。入店して抹茶ラテのホットとミラノサンドCを買ってすぐに家に帰ろうと思ったのだが、メニューを見るとミラノサンドはAとBしかなかった。予期しない出来事に少しばかり困惑したが、その場しのぎでジャーマンドッグを購入した。注文した品物が作られている間、何故ミラノサンドCが消えてしまったのかをただ考え続けた。店から商品が消える理由なんてものは大して多くなく、おそらく人気がなかったりコストが見合わなかったりしたのだろうと考えた。だが、3種類あるうちのミラノサンドの内、Cだけが消えてしまうことなんてあるのだろうか。本当は人気や採算以外のなにか大きな理由が隠されているのではないかという気がしてならなかった。消えるのはAでもBでも、果てはジャーマンドッグでも良かったのではないか。考えたところで納得の行く結論は出てこなかった。このまま帰るわけにも行かず、商品を受け取る際に店員さんにどうしてミラノサンドCは消えてしまったのかと聞いてみた。彼女は「すいません、ミラノサンドCはなくなってしまったんですよ。私も好きだったんですが。」と答えた。なるほど、ミラノサンドCは消えてしまったらしい 。きっと消えてしまったこと自体がミラノサンドがなくなってしまったことの理由なのかもしれない。きっとそれ以上の理由なんてものは存在していないのだろう。

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続かない。