ぴんく色のゴミ箱

pwnのことは一切書かないし大嫌いです / 書いてあることは全てフィクションで事実は一つもありません / このブログに筆者は存在しません

食欲の話をしよう

酒を飲んだので。

 

コンタクトレンズの話をしよう。強い近視で、且つ左目だけ乱視のコンタクトレンズの話。 

初めて眼鏡をかけたのは、確か小1の頃だったと思う。覚えている限り、ある日突然目が悪くなった。確かに日々の生活に目が悪くなる原因はあったと思うが、あんなにも突然見えなくなるものなのかと思った。小1の授業参観の日、国語の授業をしていた時のことだと思う。小2~小5は学校に行っていないし、教科書にリスの写真があったから多分一年生で間違いないと思う。国語の授業が始まって30分ほど経った時、突然黒板の文字が見えなくなった。近視乱視の人なら分かると思うが、黒板が絵の具で書かれていて上から水を垂らしたように滲んで見えなくなった。恐らく数日はそのことを言い出せなかったと思う。子供というのは本当によく分からないもので、概して限定された妙な秘密主義であることが多い。見えないということを隠して1週間ほど過ごしていたが、そのままで居られるわけもなく眼鏡を作った。初めて作った眼鏡なのに、恐らく度数は殆ど大差なく、その度数のレンズが収まるほどのフレームが殆どないという代物だ。中学だったか高校だったかに上がってコンタクトレンズにした。ここで中高のどちらで変えたのかを覚えていないのは、僕が人生のイベントの大半をただひたすら場所に依ってのみ識別するからだ。中学も高校も同じような県に居た。だからどちらもほぼ同じような事象としてのみ記憶されている。人生で最高の思い出と最低の思い出が仮に同じ場所で起こったら、僕は恐らくどちらか一つしか覚えていられない。よくよく考えるとコンタクトなんて意味のわからないものだ。眼球の表面にガラスみたいなのをはっつけておくんだから。コンタクトにするためには眼科で検査をする必要がある。僕が行った眼科では、涙の分泌量が正常かどうかを検査するために眼球と下瞼の間にリトマス紙みたいな分厚い紙を無理やり入れ込んで10分ほど放置した。視力検査用のヘンテコ眼鏡をかけて待合室で待つのが恥ずかしいというのはよく聞くが、あれはそれどころではない。普通に痛い。電車で座っている時に眼球にリトマス紙を挟んだ人が乗車してきたら絶対に積を譲ってあげようと決心した瞬間だった。コンタクト自体はとても快適だ。重くない、その一言に尽きる。掌底で眼球のマッサージをすることだって容易にできる。視界も360度ある。ただひたすらに手入れをするのが面倒くさいと言うだけである。実際、数年前まではコンタクトを外さずに寝ることもしばしばあった。その結果眼球に傷がついて眼科に行く羽目になったり、レンズが目の裏側に入って取れなくなったりすることもあった。眼球にレンズを入れるのを恐れていたくせに、今では入れ続けることや手入れしないまま入れることに抵抗を覚えなくなってしまった。なんとも人間の慣れというのは面白いものだったりする。最近では、外してケースに入れるだけで、泡が生じて自動でレンズを洗浄してくれるようなキットを買った。これのおかげでレンズを一々擦って洗う必要がなくなった。本当に良い買い物というのは生活習慣を変えてくれるものなんだと思う。

 

食欲と村上春樹の話をしよう。

20を超えてから、そんなに食欲が旺盛ではなくなった。というよりかは以前から食欲が旺盛な方ではなかったが菓子の類は好きだった。蒲焼さんとかおしゃぶり昆布とかの硬い食べ物なら全般好きだった。蕎麦は茹でる前の硬い状態が一番好きで、小さい頃にはよく叱られたものだった。 あとは麺つゆを薄めず生で飲むのが好きだたったし、チョコレートが好きだった。とにかく固くて味の濃いものが好みだった気がする。だが、20を超えてからは甘いものはそんなに好きではなくなったし、菓子類を買うこともなくなった。食事も朝食は摂らなくなったし、夜もあまり食べなくなった。14時頃に暇つぶしに食べるくらい。それでいて痩せるわけではなく寧ろ太りやすい体質になってしまうんだから、人体には後でお灸を据えておく必要がある。無論食事を摂らないのは体に悪い(と世間では言われているらしい)。食欲が出ないときには、村上春樹の小説を読むのが一番効果的だと思う。彼の小説は、嫌いな人にとっては到底受け入れられるものではないと思う。かっこつけていて、事象と事象を変に結びつける嫌いがあり、周囲の女性たちは気づくとどっかに消えているし、大体鳥はうるさいし、大体猫は帰ってくるし、大体未成年の少女は飲酒喫煙しているし、大体主人公はなんやかんや有りの侭の現実を受け入れがちである。僕も小説自体が取り分け好きなわけではない(ノルウェイの森を除く)。その小説が嫌いな人の意見はよく分かるし、批判されていても別に何を思うわけでもない。だが、彼の小説は食欲を増進させることだけは確かである。

主人公は大抵何かのトラブルに巻き込まれる。自分が原因であることはない。意味の分からない運命のようなものに巻き込まれる。それは大抵女性が発端となっている場合が多い。厳密にはその女性たちが原因であることは少なく、ただ媒介になっているだけなのだが。時には腹を切られ、時には職を失い、時には猫が何処かに行ってしまう。そんな状況に翻弄され、主人公ただ一人残された時、彼は食事を摂る。自分で作る場合もあるし、趣味の悪い音楽の流れたカフェの場合もある。彼は土壁のようなサンドイッチを食べ、ただ焼いただけのウインナーを食べる。大抵不味くて味のしないコーヒーを飲む。そのあと二三本の煙草を吸う。グルメ小説ではないから、豪勢な食事も質の良い食事の描写も出てこない。ただ只管に彼はルールとしての生活の一部として食事を摂ってコーヒーを飲んで煙草を吸うのだ。それが何よりも食欲を増進させる。食欲を満たすための食事ではなく、規則としての食事を促してくれる。現代では、食べれば大抵のものは旨いし、飲めば大抵のものはいい味がする。ただそれ以上に、規則としての食事をしたことで自分を肯定させてくれるのが、彼の小説である。(別に食事シーンに限らず、1日数ページは彼の小説を読む。だが別に対象はどんな本であっても別に良い。食事以外に関して言えば、文字であることだけが意味を持っている。)

 

3.11の話をしよう。

もうすぐで3月11日になる。信じ難いことに、あの日から10年が経つらしい。10年前のあの日、小学校の卒業式の予行演習が終わり帰りの会をしていたと思う。同じ小学校の人は同じ中学校に行くから、ただ教師が変わるだけの進学である。別に大した思い入れはなかったような気がする。震度6弱~6強の地域に居た。地震は以前からよく起こる場所だったし、岩手宮城内陸地震も経験していた。午後2時46分。小学校だから、地震が起こると机の下に隠れるように指示される。最初の30秒くらいにはちょっと強い位の揺れで、机の下の隠れながらも隣の友人と冗談を言い合っていた。隣の友人が実家の犬を冗談交じりに心配していたのが10年経った今でもよく覚えている。最初の1分間の揺れで隣のクラスの金魚を飼っていた水槽が落ちたらしい(隣のクラスというのは、当然1組のことだ。辺鄙な町の学校だからクラスは2つしかないし、双子である僕は常に片割れと違うクラスで、それは大抵2組だったから)。一度収まった後の再びの第二波の揺れで自分のクラスの窓ガラスが割れた。担任の教師はただ只管にテレビを支えていた(二十数年生きてきた中で、何故かあのテレビを支えている教師の姿以上に面白い光景をまだ目にしていない)。3分だったか4分だったか揺れ続けた後、校庭に避難するように指示された。窓ガラスは散乱していたし、防火扉は閉まっていた。今思うと、なんであの防火扉は閉まっていたんだろうか。あれは揺れで閉まるような仕組みになっていたんだろうか。靴をちゃんと履き替えて校庭に出た。どうせ数週間は校内に入れないことは分かっていたし、お気に入りの靴だったからちゃんと履き替えて外に出た。それから暫くは校庭に居た気がする。生徒は親の迎えを待っていたが、自分の家は山を一つ越えたところにあるから、暫く待つ必要があった。校庭には臨時でヘリポートのH印が石灰で書かれ、救助用のヘリコプターが降りてきた(別にヘリポートの印があるところにヘリが降りてくるのは何も不思議なことではない)。3月も中旬だが、ぱらぱらと雪が降ってきたのを覚えている。東北だから、3月に雪が降ることは取り分け珍しいことでもない。だが、あの日雪が降ってきたのは恐らく特別なものであった気がする。親の迎えが来て、山道を越えて家に帰った。これから覚悟しなさいよという親の言葉は、地震に対するものだったのか、それとは全く関係なくこれからの自分の人生に対するものだったのかは今でも分からない。普段通る道は土砂崩れが起きていて通れなかったため、普段通らない道を迂回して帰った。土砂崩れは、起こってみるとなんとも滑稽な表情をしていた。家の瓦は落ちていて、食器は大抵割れていて、自分の部屋の物は大体床に転がっていた。家族に誰一人として怪我人は居なかった。家の水道は止まっていた。トイレも1日程動かなかった気がする。家の外にある水道は山の水を直接引いているから、最初の数時間は土砂で濁っていたもののすぐに飲水として使えるようになった。テレビでは意味の分からない光景ばかりが流れていた気がする。津波に飲まれながら燃えている光景は、きっとこの人生の内には二度と見ることがないと思う。確かその日の内に震度5の地震が3回程あった。その日だけは、家族で集まって畳の部屋で寝た気がする。ラジオを常に流したままにして。田舎は静かで地面に近い生活をしているから、地震が来る前には地鳴りで100%分かる。これは絶対にそうなのだ。地鳴りが大きくて長い場合には問題ない。大抵揺れは小さくて短い。大きい地震というのは、地鳴りを聞いた次の瞬間には揺れているものなのだ。

当然小学校の卒業式はなくなり、そのまま春休みになった。これまた子供というのは変に几帳面と言うか意味の分からない責任感と言うかを持っているもので、僕は春休みの宿題としてその日以降の新聞をノートに纏めていた。大体は原発のことである。やれ緊急事態になったかと思えば、ある日の朝刊には水素爆発したとかメルトダウンしたとか書いてあった。正直頭は悪い方ではなかったがよく分からなかった。自分の家も避難対象になった(すぐ側まで避難指示で、自分の家は避難勧告だった気がする)。親が子供達の健康を心配したのか、少し内陸の親戚の家にお邪魔することになった。誰にとっても未知の事象だから大事を取るのも無理はない。ところで祖父母は避難せずに自分の家に残った。避難するくらいなら家と諸共という感じなのだろうか。いや、一緒に内陸に行ったんだっけ。あんまり覚えてない。親戚の家で銀魂を読んでパワプロをしたことしか覚えていない。親戚は皆身長高いんだよなぁ、何故か。テレビ番組で見た、瓦礫の山の中でトランペットを吹く少女の映像が忘れられない。あの人も多分、今は20歳を越えているんだろうな。

そのまま中学生になって、高校生になった。家族が死んだわけでもなく家が倒壊したわけでもなく、普通の生活を送ってしまった。高校は推薦で入ってしまったし、卒業するときには成績優秀で表彰されてしまったし、大学受験は浪人してしまった。当時はちゃんとした大人になろうと思って居た気がする。訳もないし、震災に何か影響を受けたわけでもないと思う。だが今の自分の記憶の中の自分で、一番確かな記憶を持っているのが、ヘリポート印の雪の降る校庭で地面に座っていた当時の自分というだけ。うーん、彼にちゃんと説明できる気がしない生活を送っている。

 

 

大学の話をしよう。

浪人した。意味のわからないサークルに入れられた。コンピュータを教えてもらった。成績が良くなくて情報科学科に入れなかった。今でも自分の学科の分野に興味をもてないでいる。CTFを教えてもらった。あまり人に聞けなくなった。最近はSlackが余り愉快ではなくなっている。OS本は緑のやつと青いやつとオライリーのやつでお腹いっぱいだ。でも多分東工大の人のやつは買って棚に飾っておくと思う。

三日坊主が常の自分からすれば、割と長く続いている方だと思う。昔は本を読むのが好きだったからその延長線だと思う。glibc羊をめぐる冒険で、LinuxKernelはノルウェイの森で、QEMU騎士団長殺し。V8は1Q84(つまり、読んだことが無いということだ)。日々数ページ小説を読むのと同じでpwnをやっている。結局は物事の粗を探して揚げ足を取るという遊びだ。でもそれのおかげで少しだけ日々が楽しくなっている。生産性は、何もない。向上意欲がないから自分で作りたいというものが無いんだと思う。だから使い捨てのPoCばかり書いて日々を過ごしている。プライベートリポジトリに車輪の再開発とコードリーディングの屑だけが蓄積する。pwnはただそれにうってつけだと言うだけのことだと思う。昔は自分には到底理解できないコンピュータの話をする先輩達がCTFで競っているのに憧れていた。今は焦燥感からキーボードを叩いている。別に人と比べるつもりは無いらしい。始めたきっかけが、pwnを教えてくれた人に憧れたというだけなのかも知れない。だから、くっきーさんが心から凄いと褒めてくれたら、僕は満足してパソコンを辞めると思う。楽しいが、競い合うだけの頭脳を持ち合わせていない。

 

 

23時に寝る話をしよう。

コロナのせいで喋る機会はずっと減った。前から話上手ではなかったが、生徒会長もやっていたし、それなりに話すのはできると思っていた。だが最近はもう殆ど人と話をすることがなくなっている。頭の中の自分の声と実際の自分の声の相違に大分驚く(実際の声がかなり低い)。ここのところ23時頃に寝るようにしている。起きるのは5時頃だ。起きたら黒い帽子を被ってマスクをして黒いスニーカーを履いて(少し前まではショートブーツのようなものを履いていたが、最近は面倒くさくて履いていない)、高校の時から来ている鼠色のコートを着て外に出る。少し辺りを散歩して、自販機で白いカフェラテを買って部屋に帰る(上京したての頃には、自分の部屋に「帰る」という表現に違和感を覚えていたが、今は帰る以外の表現がない)。ラップトップのキーボードをxinputで殺してその上に無印US配列の黒いHHKBを乗せて叩く。1日に5回は意味もなくsudo apt updateをする。tmuxのプレフィクスはCtr+Fにしている(サーバはCtr+G)。gdb拡張は前までpedaだったが今はpwndbgにしている。ThinkpadがどのPCよりもかっこいいと思っていたが、学科の配布PCがThinkpadと知って少し好きではなくなっている。似非vimユーザだが、それなりの量のコードを書くのにはVSCodevim-bindで使う。使いたくはないが必要になればMacを開く。AndroidStudioとChromeとkernelを開くのに必要だからメモリは32GBまで増設した。だが、今でもkernelは古い東芝Dynabookで読むこともある。キーは数枚剥がれたし、画面は真ん中から割れているし、RAMも8GB、HDDも128GBしかない代物だが、寝ながら読むにはこれが丁度いいのだ。何事にも向き不向きがある。劣っているものが必ずしも淘汰されるとは限らない。そうすると夜は大抵9時には眠くなる。眠くならないときにはアルコールを入れて布団に入る。前まではパソコンはスリープさせないまま、カーテンは開けたまま、ケータイは枕元に置いて寝ていたが、最近はパソコンは必ずスリープさせ(ドライバを変えるまではスリープさせると必ずバグって起動しなくなっていた)、カーテンはちゃんと閉めて、ケータイは手の届かない机に置いて寝るようになった。この時間に寝るのが健康的かどうかは分からない。結局睡眠時間自体はほとんど変わらない。ただ、世間が起きる前にはちゃんと起きていたいと言うだけなのかも知れない。

 

 

 

書き始めたのが21:20。今の時刻が21:45。書き始めに飲み始めた500mlのレモンチューハイを丁度飲み終わった。寝る。

 

 

 

 

 

続かない