ぴんく色のゴミ箱

pwnのことは一切書かないし大嫌いです / 書いてあることは全てフィクションで事実は一つもありません / このブログに筆者は存在しません

ポンにゃ!のはなしをしよう

うわぉぉぉぉぉぉぉぉあわわわわわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。

研究する上で気をつけてること

さて、今日は進捗0でした。というわけで酒を飲んでます。サッポロ黒ラベルの500mLと、ファミマのからあげ醤油味(3個入)。おいしいね。

今日は進捗0だったけれども、まぁ大して気にしてません。というか、ちゃんと大学行った事自体を全人類は褒め称えるべきです。この酒はやけ酒ではなく、祝杯です。取り敢えず頑張った自分へのね。乾杯。

今日は全く進まなかったけど、取り敢えず研究を進める上で気をつけていることというのを列挙してみようと思います。整理は大事です。整理は、するだけで進捗に成るからね。

小まめにブランチを切る・ちゃんとメッセージつける・issue/PRで管理する

開発全般における話です。大したことないですが、大事なことですね。

今はこの学会に出すためにこの実装をするというのをしているわけですが、勿論締切があるわけです。そんな中で、まぁ大体は新しい機能をつけるとバグります。とりわけ今はハイパーバイザをいじっているため、デバッグもむずいです。ましてや、現在は実デバイスに関係するコードを書いているためハードの仕様的なエラーもたくさん出てきます。最近はどうしても解決しないバグを治すため、Intelのマニュアルとにらめっこしてエラーの原因としてあり得るチェック項目が100近くあったわけですが、そのチェック項目に対して黙々とテストケースを書いてエラーの原因を解明しました。そんなわけで、まぁバグるものと思って新機能を書いています。

バグったときには、当然問題の切り分けが大事です。特にハイパーバイザだとレイヤーが増えるので尚更です。ハイパーバイザのコア部分が悪いのか、ドライバが悪いのか、ゲストが悪いのか、デバイスが悪いのか、リモートホストが悪いのか。原因を突き止めるのに一番有効なのは、バグってなかった時点までcheckoutすることですね。というわけで、ブランチはこまめに切ることにしてます。デバッグ用のブランチも、おうちで酒飲んでるときに見返せるようにpushします。酒飲んでるときにバグを見つけるというのは、この2ヶ月間だけでたくさん経験しました。新しいコードを書くときは、どんなに小さくてもブランチを切ります。マージするときはPRを建てます。バグったら、issueを建てます。脳内の容量には制限があるので、ネットの海にちゃんと流しましょう。

また、stashするときもちゃんとコメントします。原因を切り分けるためのテストコードをこまめに書くことが多いため、stashのスタックが多くなりがちなので、いつでも戻せるようにstashはpopではなくapplyします。

また、論文書くためのコードは、卍妥協卍がたっぷりだと思っています。プロダクトとしてリリースするわけではないので。いざとなったら「時間の都合上実装していないが、XXXに対応するのは簡単である」で逃げられます。そんなわけで、まずは形にするためにも現在書いてる機能を泣く泣く捨てることも割と有ります。そういうのもあって、ブランチを沢山切るのは大事ですね。もしも取り敢えず形にした上でrefineしたいときは、過去に戻れます。すごいね。あれ、これgitの説明してるだけじゃね?きのせいです。ブランチだけにね。

人に聞く

これも当たり前体操です。幸いなことに、研究室にはいつでも聞ける先輩がいて、先生にも気軽に意見を求めることができる(但し、忙しいっぽいので頻度は低め)ので、なんかあったら雑に聞いています。

但し、情報系だと割と難しいポイントが有ります。電気系にいたときは、概念的にわからないところとか、実験でわからないところは十分口で説明できていました。こういうプロセスをしたところ、基板がこうなったみたいにいえば、先輩は大体原因を教えてくれます。けど、情報系の場合はコードを書きます。大抵の場合は、ドキュメントもなく、specificでspecializedなコードです。読ませるコードと対局にあるコードと言えるかもですね。それは、概念をコードに落としたPoCですが、それ故に質問を受けた人はそのコードを確認しないとアドバイスできない場合が多いように感じます。

それをちょっとでも緩和するために、誰かに聞くときは、今やりたいこと・やってること・実装概要・結果(バグ)・推測の5点をできる限り伝えるようにしています。それも、別日でも何回も繰り返して言います。研究室なんて無限人いる(というのは嘘で、今いる研究室はそんな人数多くないけど)ので、自分の現況を相手が覚えていないこと前提で毎回ちゃんと説明します。そうすると、コード自体こそ見ていないものの、先輩は原因としてあり得るポイントをなんとなく共有してくれます。勿論コードを見ていないので大抵の場合はそれが正解ではないですが、そこから視点が広がって解決することもしばしばありました。

また、ラバーダックはあなどれません。ラバードックがテディベアを背負って歩いてくるかもしれません。現状をまとめて取り敢えず投げるというのは、やっぱり大事だって近所の小学生が言っていました。

そんなときに役に立つのがやっぱりissueとPRですね。現況を共有する上でも、もらったコメントを忘れずに記録しておく上でも、全員が見れる場所に置いておくというのは大事です。

息抜きする・諦める

無理な日は無理ですね。そういう日はそういう日で、ドトールのコーヒーを飲むための一日もあれば、サンダルで散歩するための日も有ります。その日はバグが治る日ではなかっただけです。責めるなら梅雨を責めてください。世の中の大半の悪は、湿気が高かったり雨降ってたりすることが原因です。つまりは気象庁が悪いです。ぼくはなにもわるくない。

というわけで、今日もそんな日だったので、諦めて研究室のソファでネット麻雀して、スマブラして、お家帰って酒を飲んでます。だってそうするべき日なので。そうしないのは寧ろ自然の理に反してますよね?

ISの地下とスマブラについて

学部は電気系でしたが、まぁ言ってしまえば行きたくて言ったところではないので、そんなに楽しくはなかったですね。院で同じ轍を踏むのもあれだったので、院試では行きたい研究室だけを狙い撃ちしました。その専攻の研究室全てに対して、行きたい・どっちでもいい・行きたくないの3つの印をつけていくタイプだったのですが、今いる研だけにマルをつけて、あとは全部バツで出しました。そうすると、面接のときに落ちたらどうするんですかと聞かれます。胸を張って、取り敢えず一晩寝ますと答えましょう。

さて、大学のISと呼ばれる学部には、地下というエリアがあって、そこにパソコンが置いてあってIS民達がたむろしています。外部の人が行くと怖い先生に怒られる可能性が有りますが、一度見に行ったところswitchが置いてあってスマブラができる状態でした。もともと学部はISに行きたかったのもあって、地下に置いてあるスマブラに対してある種の憧れのようなものをずっと持っていたわけです。というわけで、今の研究室になってから、速攻でスマブラを導入しました。スマブラは、桜井さん曰く卍楽しいパーティーゲーム卍です(本当はDLC蔓延るカズヤ最速風神拳ストレスゲーです)。研究室の人ともこれがきっかけで話せるようになったと言っても過言ではありません。まぁ良いことかと言われれば知らんけど、知らんことは、知りません。多分やることやってればOKです

インターンというものについて

なんかこの世にはインターンというものがあるらしいので、何個か出してみました。大抵コーディングテストとかいうものがあるので厳しいですね。コーディングなしで通してくれた会社さんは大好きです。あと、この前やったやつは奇跡的に解けたので大好きです。あとバームクーヘンとか、大好きです。覚えといてね。乾パンは最近あんま食べてないです。これ、トップシークレット。

おわりに

なんか書こうと思ってたことが他にもあった気がするけど、忘れました。

最近は週7で研究室に行っていて、家の中が荒れ気味なのでちゃんと掃除したいです。良い息抜きを見つけようと思います。雑に人を誘ってはま寿司行くのにハマってます。はま寿司一緒に言ってもいいよという人がいれば、大歓迎です。

ちなみに、この記事は https://wywiwya.smallkirby.xyz/view/xR3bLi5AaFxVMONXJKBW の転載です。天才ですね。

乾パン is everywhere...

抹茶ラテの話をしよう

23年生きてきた(もしかしたらもっと生きているかもしれないが)。これだけの間生きてきて分かったことはたった一つ。本というのは素晴らしいものだ。何故なら本を読んでいるときは本を読む以外の事をする活力を与えてくれる。

03月08日。火曜日。朝08:30起床。最近はどうも朝起きることができない。バイトがある日は問題ない。気持ちの問題であろうが、起きたらすぐに布団を出て、顔を洗い、服を着替え(最早外に行く用事なんて殆どない今日この頃、着ていく服を選ぶ手間なんてものは既に忘れてしまった)、朝食を食べに行く。最近の朝食はずっとすき家のカレーだ。美味しいは美味しいが、特に特筆することはない、普通のカレー。レジで財布を取り出し、600円を払ってレシートを備え付けのゴミ箱に捨て、店を出る。いつもどおりの早足で帰路につくと、必ず1回信号に捕まる。信号を待っている間に近くの自販機で白いカフェオレとモンスターを買い、モンスターは左手に、カフェオレは右のポケットに(コートの左のポケットは中が破けてしまい、小さいものを入れるとコートの生地内部に落っこちてしまう)入れ、右手でポケットの中の家の鍵を手に持つ。なんでこの時間に高校生が道を歩いているんだろうと考えていると信号が青になる(この時、赤色の信号は必ず青色に変わるという事実に安心する)ため、歩を進めて家に帰る。家につくと被っていた帽子とマフラーとコートを脱ぎ捨て、モンスターを冷蔵庫に入れ、ポケットから白いカフェオレを取り出して飲む。1/3はその時に飲んでしまい、残りの2/3は最近買ったL字デスクに置いておく。こうしてなんでも無い日の朝は終わる。

大学4年間が終わったという事実についての話をしよう。

およそ3週間ほど前に卒論を提出した。大学の全過程が終わり、今は春休みのようなものの中にいる。直近では大学院の入学手続きをしなければならない。証明写真を取ったり銀行に行ったりしなくてはいけないのだが、どうも気持ちがのらずにやっていない。 大学4年間を考えてみると、加速度的に面白くなくなっていく4年間だった。教養学部の2年間を終え、後期の学部を選ぶ試験で成績が振るわず電気系に行き、電気系の中でも情報寄りの研究室に行こうとすると失敗して電気系の研究室になった。研究室自体は比較的(比較対象を知らないからこの表現は正しくないかもしれない)良いところで、先輩は親切で、教授はフランクで放任的で(結局卒論を書いてから提出するまでの間、教授に書いた卒論を1度たりとも見せることはなかった)、同期の中には一緒に徹夜して実験に付き合ってくれる人もいた。先輩の一人には本当におんぶに抱っこな程面倒を見てもらったし、その他の人にも全く一から何かを教えてもらうということが多々あり、この点はひたすらに感謝している。大学院入試は8月にあった。電気系の研究室というものは、4月に配属され、6月下旬頃にテーマを決めた後、およそすぐに院試の準備のために研究室に行かなくなる。大学院というのは複数受けて落ちた場合に備えるものらしいが、自分は情報関係の大学院を選び、研究室は一つしか志望しなかった。特段興味のない研究室に在籍することのしんどさは、身を持って体感したからだ。6月当時は、周りの人に違う専攻に行くことを言っていなかったため、先輩たちは同じ専攻なら大して苦労もかからずに通るから大丈夫と言っていた。そんな中、7月頃自分は他の専攻を受けると研究室で話した時に、残り数ヶ月しかいない研究室のことよりも、今は院試のための勉強に力を入れたほうが良いと言ってくれた先輩のことが印象に残っている。結局院試期間はCivilization6にハマり、数学では大こけし、面接で研究室を1つしか受けていないが落ちたらどうするのかと聞かれた時に、その時考えますと素っ頓狂な事を答えたりしたのだが、なぜだか院試期間中のことはあまり覚えていない。ただ一つ言えるのは、これまでの人生の中でも数えられるほど全く面白くない期間の1つであったということだけだ。 院試の結果が出て、先輩からもどの研究室に行くのかを聞かれ、自分が他専攻に行くことが他の人にも知れ渡ったあたりから、研究室生活はそんなに苦でもなくなった。おそらく、自分が電気系の知識が殆どないこと(これは高校の時から変わらないのだが、自分が最も苦手な分野は皮肉なことに電気と光の分野だ)や、そもそもに他専攻に行くことが先輩に知れ渡ったためか、先輩に何かを聞くと至極基礎から教えてくれるようになった気がする。情報よりの話を振ってくれる先輩もいたし、来年以降はいないことを前提にいろいろな説明を最適化してくれる先輩もいた。結局最後までこの分野に興味を持つことはできなかったが、これは恐らくひとえに自分の責任であろう。得たものは無いわけではなく、研究室内では先輩でも同期でも本当に真摯に研究に向き合っている人が多く、勿論頭もよろしく、こういう人たちがアカデミアに残るべきで(最初から自分は残るつもりはないが)、表面をかじって嬉々としている自分では到底及ばないんだろうという確信を持つことができた。これだけでも、全く意味がなかったわけではないと言えるであろう。

大学4年間での最も大きな出来事はなんだったのだろうか。きっと、1年の時に学部同期がパソコンカタカタサークルに入れてくれたことなのかもしれない。けど、この辺は書くのがめんどくさいから書かないでおこう。

ミラノサンドCの話をしよう。

08:30に起きて朝食を食べ、そのままパソコンの前に座ったのだが、何をする気分も起きなかった。1週間ほど前までは、何かをしたいが何をすればいいかわからないという状況だった。きっと研究室生活で自分の興味とは異なることを長らく続けてきた代償だろう。知人とDiscordで通話し、今の自分の興味とスキルセット的に春休み中に可能な暇つぶしを話し合った。それで、春休み中はおそらく暇で死ぬことはないであろうという状態まで案を出すことはできた(暇で死ぬというのは、比喩でもなんでもない。おそらく退屈は人間を殺す)。だが、今日の昼前の自分はまた違った状況に置かれていた。やりたいことも、具体的に次に何をやるかも決まっている。自分でソースコードを書く用のVSCodeと、参照プロジェクト用のVSCodeを2つ開き、プロセスモニタ(PCを買い換えるまでは自作のプロセスモニタを使っていたのだが、現在使っているPCとは少し相性が悪く、かといってコードを修正する気分にもならなかったため、プリインストールされているGUIのプロセスモニタを今は使っている)をサブディスプレイに、エディタをメインディスプレイに置いた(ワークスペースを横置きにしたGNOMEは反省すべきだ)。CPUの24コアの働きを軽く一瞥し、kernelを開いているVSCodeはインデックスのために6GBもメモリを食っているなぁと思いながら、お気に入りのこるねキーボードに両手を置く。ここで異変に気づいた。全く以って何もやる気が出ないのだ。これまでもやる気が出ないことは多々あった。というよりも、それがここ1年間は常であった。それは大概の場合、すぐ次に何をするかが決まっていない場合である。こういう場合には、朝起きるにも憂鬱で、次に何をするか決めている間に一日が終わってしまう。だが、今日はすぐ次にやるべきことが決まっていて、実際にキーボードに手を置いているのにも関わらず、全く脳も手も動かなくなってしまったのだ。

もしかしたらそれは2つしかないディスプレイのせいかもしれないし、少し背が高すぎる椅子のせいかもしれないし、全く機能性のないゴミ箱のせいなのかもしれない。だが、やるべきことが決まっているのに何もやる気が出ないという事実に、しばらく呆然として固まってしまった。そうしている内に昼になってしまった。この間にしたことはと言えば、HHKBの電池を取り替えたことくらい。最早今の自分にできることなど何もないと、寝ることにした。二度寝は毎日のようにするが、朝食を食べPCの前に座ったのにもう一度眠るということは、自分にとってはほとんどない経験であった。そういったことが、ここ1週間は多発している。起きると16:00になっていた。少しだけ日が長くなってきた東京の町並みはまだ明るかったが、16:00なんて後は終わりに向かうだけの時間だ。今日という一日を諦めた自分は、何も考えず財布とコートを手に取り外へ出た。特に何をするあてもないが、散歩は睡眠と並んで人間に必要な要素のひとつだと信じている。目的もないまま歩を進めた。幼稚園くらいの子供をチャイルドシートに載せた自転車と7回すれ違い、路上喫煙をする高齢者を2回追い越し、エルモ柄のパーカーを着た女性2人組に1回追い越されたところで、ショッピングモールのようなところについた。思えば、引っ越してからはこういった色んな店が集まっている場所に行くことなんて殆どなかった。少し高揚して中に入り、すぐに書店を見つけた。最初はレジャーコーナーに向かう。雑誌なんてものは、髪を切りに行った時に建前上読むくらいのもので自分から読んだことはない。だが、釣りだったり山登りだったりの趣味を作りたいという思いから数冊の雑誌を読んでみた。雑誌で紹介される山や海や川はどれも魅力的だが、実際にそこに向かうまで課程や道具を整える準備を考えてしまうとどうしても憂鬱になってしまう。結局大した収穫もなく雑誌コーナーを後にした。続いて向かったのは新書コーナー。おしゃれを気取った表紙のハードカバー本が大量に並んでいた。好きな作家もジャンルも持っていない自分にとっては、タイトルのみが本を選ぶ時の基準となる。気になる本は何冊あったが、ハードカバーの本はどうしても読む時の不便さを思うと買う決断ができない。そのまま惰性で文庫本コーナーに向かう。時間はたくさんあったから、置いてある本のタイトルを一つずつ頭で反芻し、気になる本を探していった。思えば、本というのは素晴らしいものだ。時に本は食べる活力さえ湧かない自分に食欲を与えてくれる。時に本は、静寂という価値のある時間を提供してくれる(この場合、本の中身は重要ではなく、静寂の中何もしないという行為に対して正当な理由付けをしてくれるという点でのみ価値を持っている)。時に本は、読み終わった時に本の内容とは全く関係のないことに対する活力を与えてくれる(これもやはり、「何もしない」という行為に正当な理由と相応の時間を提供してくれるからであろう。何もしない時間というのは、何かをするという行為に対しての活力を与えてくれるが、本当に何もしないという行為は、それ単体として実行するには非常に難しいことなのである)。本を読むことが、今の自分にとってなにか助けになるかはわからないし、本なんてものにそんなことを期待してはいけないと分かっている。だが、ここ1年間は本を読まなすぎた。それだけでも本を購入する正当な理由になる。結局、直感で数冊を選んで購入し書店の外に出た。

そのまま散歩を続けると、近くにドトールがあった。高校生までの間に行ったことのある店が世界の全てである自分にとって、ドトールは数少ない選択肢の一つである。入店して抹茶ラテのホットとミラノサンドCを買ってすぐに家に帰ろうと思ったのだが、メニューを見るとミラノサンドはAとBしかなかった。予期しない出来事に少しばかり困惑したが、その場しのぎでジャーマンドッグを購入した。注文した品物が作られている間、何故ミラノサンドCが消えてしまったのかをただ考え続けた。店から商品が消える理由なんてものは大して多くなく、おそらく人気がなかったりコストが見合わなかったりしたのだろうと考えた。だが、3種類あるうちのミラノサンドの内、Cだけが消えてしまうことなんてあるのだろうか。本当は人気や採算以外のなにか大きな理由が隠されているのではないかという気がしてならなかった。消えるのはAでもBでも、果てはジャーマンドッグでも良かったのではないか。考えたところで納得の行く結論は出てこなかった。このまま帰るわけにも行かず、商品を受け取る際に店員さんにどうしてミラノサンドCは消えてしまったのかと聞いてみた。彼女は「すいません、ミラノサンドCはなくなってしまったんですよ。私も好きだったんですが。」と答えた。なるほど、ミラノサンドCは消えてしまったらしい 。きっと消えてしまったこと自体がミラノサンドがなくなってしまったことの理由なのかもしれない。きっとそれ以上の理由なんてものは存在していないのだろう。

f:id:smallkirby:20220308192652j:plain

続かない。

PC買った: AlderLake + Ubuntuのおはなし

師も惰眠を貪る2月。 卒論を提出して審査も終わり、大学4年間の課程は終了となっった。 このへんについては積もる話もあるような無いようなきがするため、また別途エントリを書こうと思う。

この4年間、特に最後の1年間を死なずに生き抜いたご褒美として、初めて自作PCというものを買ってあげた。 スペックは以下の通り:

CPU    : Core i9 12900 (Alder Lake)
M/B    : TUF GAMING B660-PLUS WIFI D4
case   : 4000D airflow TG
mem    : BL2K16G32C16U4B 16GB x 2
storage: CSSD-M2B1TPG3VNF 1TB
power  : G800 GOLD
cooler : AK620 R-AK620-BKNNMT-G

kernel等のビルドが簡単にできるように、少しオーバースペック気味に買った。

さて、これでUbuntu 20.04LTSをインストールしたところ、以下の不具合が出た。

- shutdown時に電源が切れない (kernelはshutdownまで行く)
- 上と関連して、rebootができない
- suspend(sleep)するとクラッシュする

Intel12世代(AlderLake)は2021年の11月に発売されたばかりで、まだドライバが対応していないのが主な原因と見られる。 ググっても、同様のポストが散見される (eg: https://www.reddit.com/r/linuxhardware/comments/rs26p3/alder_lake_experience_with_linux/)

workaroundとして、BIOSからEthernetをdisableすると良いよと書いてあったため試してみたところ、電源が切れないという問題は解決した。だが、依然としてsuspendするとクラッシュするのは変わらなかった。

とりあえずUbuntuをLTSではなくdevel版(JammyJellyfish)にしてみたが、これが採用しているkernelは5.15であり、まだAlderLakeへの対応は十分ではないらしく問題は解決しなかった。

というわけで、より新しいkernel v5.16を自分でビルドしてインストールしてみた。(5.17はrc版しか出ていなかったので、とりあえず5.16から):

mkdir nirugiri & cd ./nirugiri
git://git.kernel.org/pub/scm/linux/kernel/git/stable/linux.git
cd ./linux
git checkout v5.16.9
cp /boot/config-`uname -r` .config
make olddefconfig
make menuconfig
scripts/config --disable SYSTEM_TRUSTED_KEYS
scripts/config --disable SYSTEM_REVOCATION_KEYS
rm ./vmlinux-gdb.py

time make -j 25 deb-pkg LOCALVERSION=-nirugiri
sudo dpkg -i ../linux-*.deb # header / image / image-deb / libc-dev

結果として、v5.16.9で上に挙げた3つの問題は全て解決した。 やったね。

ちなみに、devel版のUbuntuを使うのは初めてで、そこで使われてるGNOMEのworkspaceが、縦から横になっていてキレそうになった。 なんでもかんでもMacに寄せればいいってもんちゃうぞ。まぁ縦型にするuser-scriptがあったからキレずに済んだ。

ちなみに、coolerはAK620を買ったのだが、LGA1700に対応するためのリテンションキットが付属していなかったため使えず、現在のところ仕方なくIntel付属の光るやつを使っている。kernelをビルドすると簡単に16コア全部が100度になるため、早く良いクーラーに切り替えたい。

続かない。

こるねの話をしよう

酒を飲んだので。


キーボードの話をしよう。

 

一人の人間が、その数十年の生涯で最も多く触れているものは何か。ある人にとってはボールペンかも知れないし、ある人にとってはバットかも知れないし、またある人にとっては本かも知れない。長く触れている物は、その人間を表す。いや、その人間だから長く触れているのだろうが、卵が先か鶏が先かは一旦置いておくことにする。自分の場合はどうだろうか。二十数年生きてきて、一番長く触ってきた物。これから何年生きてしまうのかはわからないが、一番長く触るであろう物。恐らくそれは、キーボードになるだろうと思う。

初めてキーボードに触ったのは、小学1年生の頃だったと思う。小学校には殆ど行っていなかったためか、英語の通信教材を使っていた。BE-GOとかいう名前だったような気がする。それは教材がCDに焼かれていて、PCで読み込んで遊ぶタイプのものだった。その時触れたのは、よく分からないフルサイズのキーボードだった。一日中使うものでもないし、文章を打つわけでもないから、別になんだって良かったし、特に記憶には残っていない。次に触ったキーボードも、メーカーの分からない適当なフルサイズキーボードだった。中学の間は家族共有のデスクトップを使っており、そこに繋がっていた。配列はJS。押し心地は良くもなく、悪くもなかった。だが、ある日を堺にキーボードカバーが掛けられるようになった。シリコンなのかラバーなのか、透明で分厚いカバーだった。これのおかげで、押し心地は悪くなった。だがそれでも、ちょっと打ちにくいくらいだし別に大して気にすることはしなかったと思う。

3つ目に触ったキーボードは、Thinkpad Eのラップトップのキーボードだった。中学の間に小遣いをためて、高校に上がると同時に買った初めてのノートパソコン。Eシリーズはエントリモデルで、確か当時はセールをやっており(当時は、というかLenovoは年柄年中セールをやっている)、5万円くらいで買ったノートだと思う。初めて触ったノートのキーは、デスクトップのそれとは大分勝手が違かった。キーはより小さく、狭い空間に閉じ込められている。入力までの押下するストロークが短く、あまり力を使わずに打てる気がした。この頃から、キーボードはラップトップの薄いキーボードが良いものだと思うようになっていた。

4つ目に触ったキーボードは、中古のdynabookだった。高校と大学の時空の狭間に閉じ込められている間に、ストレス解消でThinkpadを真っ二つにへし折ってしまったため、大学に進む前にドスパラで買った。メモリ8GB、HDD128GBの余りスペックの宜しくないPCの、そんなに宜しくないキーボードである。いくつかのキーは反応が悪くなり、押し心地もひっかかるような感触になっていた。だがそれでも大して気にはしなかった。薄くて簡単に押せるというのが当時の自分の最重要視する点であり、逆を言えばそれ以外の要素はキーボードに一切求めていなかった。

f:id:smallkirby:20210906192112j:plain

f:id:smallkirby:20210906192140j:plain

5つ目は、大学入学後に買ったMacbook Proのキーボード。このキーボードは自分が初めて嫌悪感を覚えたキーボードである。自分がMacを何も知らず、知らないがゆえに生じる嫌悪感がバイアスとして働いていたことは確かだと思う。だがそれを抜きにしても、あの薄すぎるキーボードを許容することはできなかった。押したと言うよりも、指でクリックしたような押し心地。平面が指にフィットするはずもなく、いつもキーの上で指が迷子に成る始末。そしてこれはあまり関係ないかも知れないが、CtrlとCmdの2つが存在し、しかも役割がWin機とは逆になってしまっているのも、こいつに対して嫌悪感を抱く理由の一つになっている。

f:id:smallkirby:20210906192237j:plain

6つ目は、Thinkpad T490のキーボードだ。自分は一度使ったものに固執する性分なのかも知れない。世の中には数多のラップトップがあり、数多のキーボードが存在する。だが、その中から何かを選ぶと成ると、大抵の場合は既に選んだことのあるものを選んでしまう。食べ物にしろ、交友にしろ、そしてキーボードの場合も。大学入学後は、dynabookmacbookを所有していたが、メインで使っていたのは、というよりも"使っていた"のは、dynabookの方だけである。Ubuntuを入れて使っていた。最初は16.04で、すぐに18.04になり、2年後くらいに20.04になった気がする。とにかく、macと仲良くなれなかった自分はUbuntuから離れる気が起きなかった。そんな時、"a"キーのキートップが取れてしまった。スイッチがむき出しの状態になる。しばらくはそのまま使っていたが、やはりむき出しのスイッチを押すというのはそんなに心地の良いものではなく、また、そもそもにdynabookのスペックに限界を感じていたため、新しいラップトップを買った。メモリ32GB・SSD512GB・8coreの可もなく不可もなくというスペックのPC。押し心地に関して言えばとりわけ何も言うことはなかった。もともとThinkpadのキーが好きで買ったわけだから十分満足していた。敢えて言うならば、Thinkpadタッチパッドはかなり嫌いな部類に入る。黒板をなぞっているような気持ちになってしまう。そのため、この頃からBluetooth接続のマウスを使うようになっていた。

f:id:smallkirby:20210906192421j:plain

 

ここまで、キーボードは自分で選んだものではなかった。正確には自分で選んで購入したものではあるが、キーボードを理由に買ったものはなく、PCを買った結果としてキーボードが付いてきただけである。そんな中、身の回りにHHKBを使う人をちらほら見るようになった。初めて見たHHKBは、異様な見た目をしていた。見るからにキーの数が少なく、文字の刻印がなく、真っ黒で無機質だった。正直、当初のHHKBの印象は余り宜しくなかった。まず、当時の自分がキーボードに求めるものは、それなりに薄くてストロークが短い(といっても、Macはいきすぎである)という要素だけだった。よって、明らかに厚いHHKBには心惹かれる理由がなかった。また、周囲で使っている人はMacのキーボードの上にHHKBを載せて使っていたのだが、わざわざそこに存在するビルトインのキーボードを使わずにキーボードを追加で持ち歩いて利用するというのは、酷く非効率に映った。最後に、いくらHHKBが静音型とはいってもそれなりに音はする。勿論ラップトップのキーボードも音はするのだが、HHKBはそれとはまた違った特殊な音を響かせていた。この音も、当時の自分は余り好きになれなかった。
そんなわけでHHKBを知ってこそいたもののしばらく使うことはなかったのだが、ある日突然US配列が使いたくなった。何故US配列を使いたくなったのかに理由はない。何も食べなければ腹が減るように、外が晴れていれば散歩に行きたく成るように、暫く本を読んでいなければ世界の終りとハードボイルドワンダーランドが読みたく成るように、ただ只管に生理現象としてUS配列が使いたくなった。そんな時、真っ先に候補として浮かんできたのがHHKBだった。US配列がある。Bluetoothで接続できる。正直HHKBを選んだのはこの2点の理由だけだった気がする。何度も言うようだが、当時の自分に拘りはなかった。よって、この2点だけが外付けキーボードに求める要素だった。そして何より自分は知っているものに終止してしまう。唯一名前の知っていた外付けキーボードであるHHKBを買うと決めるのに、3分とかからなかった。

f:id:smallkirby:20210906192702j:plain

HHKBは、自分のキーボードに対する視点を変えた気がする。見た目を少し気にするようになった。Type-S無刻印の真っ暗なキーボードは、新築の家の檜の柱のような心地よさを与える。もともとキー入力の為にキーを見ることなどしないのだから、だったら最初から印字しないというのは必然の結果とも言える。削れるものは削ったほうが良い。最近あらゆるものに対してそう思うようになってきた。また、押し心地も少しだけ特殊な感じがする。正直何が違うかは分からない。勿論原理で言えば無接点静電容量方式で非接触式だからと薀蓄を垂れることも可能かも知れないが、だからどう違うんだと言われれば困ってしまう。スコスコした押し心地としか言えない。だが、これまで打ったことのない感触は、何かをアピールしてくるわけでもなく自然と自身の感覚に調和するような感じだった。多少特殊な配列を使うという行為を経験したのもHHKBが最初だった。HHKBは一般には60%キーボードと言われ、テンキー・矢印等のキーとファンクションキーを取り除いた形になっている。存在しないキーは特殊キーと同時押しして入力するのだが、慣れてしまえば指を動かす範囲が狭くなって疲れにくい気がする。

 

暫くはHHKBを使っていた。そして、この先もおそらく自分はずっとHHKBを使うことに成るだろうと予期していた。頑丈で、持ち運びできて、機能的で、心地よいキーボードは、使い続けない理由というものが思い浮かばなかった。PFUのHPにある誰かのインタビューにも書いてあるとおり、PC自体を買い替えたとしてもキーボードだけはずっと同じものを使い続けるんだろうと思っていた。
だが、自分の性分というのを忘れていた。一つには、使ったことのあるものを、知っているものを使い続けるという性分。そしてもう一つ。この上なく飽きやすいという性分。相反するような2つの性質であるが、どうしてだか、この2つは自分の中に確かに共生している。そして1年ほどHHKBを使った後、後者の性分が呼びかけてくる。そろそろ新しいキーボードが欲しくないか?

 

 


およそ1日に10時間ほどPCの前に座っている。というか、家の中で座る場所はベッドの上かPCの前かしか存在しない。これは習慣ではなく、純粋に物理的な話である。何もせずにPCの前に座るのが好きなため、その間ずっとキーボードに触っているわけではないが、それでも大半の時間はキーボードに触れていることに成る。大抵のキーボードは、ホームポジションにセットすると肩をすぼめる姿勢に成る。この姿勢を何時間も維持しなくてはならない。よく考えるとこれはかなり体に悪い事のように思える。次に買うキーボードは分割型と呼ばれるものを買おうと思っていた。腕を自然な肩幅に開いて使えるようなキーボードである。いくつか候補はあったものの、結局はfoostanさんという方が作った、corne cherryというキーボードを買った。split typeの、40%キーボードと言われるものである。HHKBは60%で矢印・ファンクションキー・テンキー等を削ったものだが、40%の場合にはさらに数字キーも削ることに成る。単純に考えれば不便なものだが、どうせ新しいキーボードにするならば、使ったことがないものにしようと思った。そして何より、こるねという名前が可愛いのが決め手となった。

この手のキーボードは、既成品として市場に出回っているわけではなく自作キーボードと呼ばれキットから自分で組み立てるようになっている。もしかしたら自作キーボードはイチから設計することを指すのかも知れないが、取り敢えずはこのタイプを自作と呼ぶことにする。

キットは各部品ごとに小分けされて届く。

f:id:smallkirby:20210906193121j:plain

キースイッチとキートップは別売りだったが、キートップは予備のHHKBのものを使うことにした。

f:id:smallkirby:20210906193224j:plain

自作とはいっても、はんだづけが出来ればつくれるような簡単な設計になっている。本来は大学院試が終わった後のご褒美として組み立てようと思い、試験の1ヶ月前に購入したのだが、結局待ちきれずにすぐに組み立て始めてしまった。一応工学部生であるらしいため、家にはんだごて等の道具は揃っており、かかった費用はこるねのキットとキースイッチの分だけだった。

f:id:smallkirby:20210906193442j:plain

はんだづけは得意ではないが、それでも動作する程度に作ることはできる。

f:id:smallkirby:20210906193549j:plain

 

キースイッチをつけて、キートップをはめればそれだけで完成に成る。

f:id:smallkirby:20210906193635j:plain

自作キーボード界隈では(といっても、最近フォローした数人の人しか知らないのだが)、性能の良いカメラを買っておしゃれなキーボードの写真を取ることが嗜みらしいが、如何せんカメラには興味がないため上のような煩雑な写真になってしまう。

サイズ的には、縦がメンソレータムと同じくらいと言うと、大抵の人に伝わると思う。

f:id:smallkirby:20210906193852j:plain

 

なんやかんやで、使い始めて1ヶ月以上経っている。この期間は余りパソコンを触らなかったため普通の1ヶ月に比べれば練習量は少ないが、それでも徐々にこるねの配列に慣れてきた。慣れてしまえば、キー数が少ないのも寧ろかなりの長所になる。両の親指がスペースキーに居候する普通のキーボードとは異なり、こるねでは親指でスペース・タブ・シフト・レイヤ・レイヤの6キーを担当することになる。もともと親指は働ける能力を持っているのだから、こるねは指界の富の再分配を行っているとも言える。その分、返って小指は無職になる。小指の担当するキーは各6キーずつだが、その半分を特殊キーに配分しているため、実質3キーずつの担当で良くなる。親指を除けば3行しか存在しないため、ホームポジションから離れることがなくなる。たまにHHKBを使ってみると、数字キーを押すのにこんなにも長い出張をしていたのかと驚嘆することになる。

また、キーのレイアウトは自分で好きに変えることができる。OS上のソフトウェア的に変えるのではなく、こるね側のProMicroでの設定を任意に書き換えることが出来るため、最初は色々と工夫して自分に合った配列を探すことになる。

f:id:smallkirby:20210906194741p:plain

f:id:smallkirby:20210906194750p:plain

f:id:smallkirby:20210906194756p:plain

f:id:smallkirby:20210906194804p:plain

 

本題のこるねの話自体が些か淡白になってしまったが、これは書いてる途中でこるねに辿り着くまでに飽きてしまったのが原因である。かなりこるねの事は気に入っているため、暇があればまた詳しく使い心地についても書こうと思う。

f:id:smallkirby:20210906194931j:plain

 

 

ワクチンを打った話をしよう。

注射が酷く嫌いである。嫌いすぎて、中学1年の時以来一切注射を打ってこなかった。大きい病気になったこともないし、別にかかってもしょうがないと思ってきた。だが、今回のワクチンに関しては、今後受けないことによる社会的な制限が生じる可能性があるような気がしたため、仕方なく打つことにした。別にコロナワクチンだから嫌だというわけではなく、注射が嫌いだっただけの話だ。

接種会場につくと、すんなりと受付が終わり、僅か3分ほどでお医者さんの前に座ることになった。物心ついてから、中1で最後に注射を打つときまで、注射の前には必ず「痛くない感じでお願いします」と言うようにしている。これを言ったからといって何か変わるとも思えないが、もしかしたら丁寧にやってくれるかも知れないという淡い期待を抱いて毎回言うことにしている。お医者さんは、少し笑いながら「少しちくっとはするかも知れないです」と言ってきた。そして、言い終わる前には既に注射が終わっていた。きっと、マジシャンかなんかだったんだと思う。本職、マジシャン。副業、医者の人にあったのは今日が初めてだった。副作用自体はまだそんなに出ていない。水も買ったし、洗濯もしたし、カップ麺も冷麺も買ってきた。倒れる準備万端だが、そこまでにはなっていない。多少接種した腕が重いのと、若干の微熱が出ていることを除けば基本的にはいつもと変わらない。

 

 

 

 

院試の話をしよう。

院試期間中は駄菓子を摂取して生きていた。孔子曰く、蒲焼さんがこの世で一番美味い食べ物だと。

f:id:smallkirby:20210906195750j:plain

院試自体は受かったようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

書き始めたのが19:30。今の時刻が19:58。書き始めに飲み始めた500mlのレモンチューハイを丁度飲み終わった。まだ副作用は厳しくないが、熱が出る頃には夢の中に痛いので、寝る。

 

 

あれ、アルコール飲んじゃだめじゃね。

 

 

 

 

 

 

 

続かない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

食欲の話をしよう

酒を飲んだので。

 

コンタクトレンズの話をしよう。強い近視で、且つ左目だけ乱視のコンタクトレンズの話。 

初めて眼鏡をかけたのは、確か小1の頃だったと思う。覚えている限り、ある日突然目が悪くなった。確かに日々の生活に目が悪くなる原因はあったと思うが、あんなにも突然見えなくなるものなのかと思った。小1の授業参観の日、国語の授業をしていた時のことだと思う。小2~小5は学校に行っていないし、教科書にリスの写真があったから多分一年生で間違いないと思う。国語の授業が始まって30分ほど経った時、突然黒板の文字が見えなくなった。近視乱視の人なら分かると思うが、黒板が絵の具で書かれていて上から水を垂らしたように滲んで見えなくなった。恐らく数日はそのことを言い出せなかったと思う。子供というのは本当によく分からないもので、概して限定された妙な秘密主義であることが多い。見えないということを隠して1週間ほど過ごしていたが、そのままで居られるわけもなく眼鏡を作った。初めて作った眼鏡なのに、恐らく度数は殆ど大差なく、その度数のレンズが収まるほどのフレームが殆どないという代物だ。中学だったか高校だったかに上がってコンタクトレンズにした。ここで中高のどちらで変えたのかを覚えていないのは、僕が人生のイベントの大半をただひたすら場所に依ってのみ識別するからだ。中学も高校も同じような県に居た。だからどちらもほぼ同じような事象としてのみ記憶されている。人生で最高の思い出と最低の思い出が仮に同じ場所で起こったら、僕は恐らくどちらか一つしか覚えていられない。よくよく考えるとコンタクトなんて意味のわからないものだ。眼球の表面にガラスみたいなのをはっつけておくんだから。コンタクトにするためには眼科で検査をする必要がある。僕が行った眼科では、涙の分泌量が正常かどうかを検査するために眼球と下瞼の間にリトマス紙みたいな分厚い紙を無理やり入れ込んで10分ほど放置した。視力検査用のヘンテコ眼鏡をかけて待合室で待つのが恥ずかしいというのはよく聞くが、あれはそれどころではない。普通に痛い。電車で座っている時に眼球にリトマス紙を挟んだ人が乗車してきたら絶対に積を譲ってあげようと決心した瞬間だった。コンタクト自体はとても快適だ。重くない、その一言に尽きる。掌底で眼球のマッサージをすることだって容易にできる。視界も360度ある。ただひたすらに手入れをするのが面倒くさいと言うだけである。実際、数年前まではコンタクトを外さずに寝ることもしばしばあった。その結果眼球に傷がついて眼科に行く羽目になったり、レンズが目の裏側に入って取れなくなったりすることもあった。眼球にレンズを入れるのを恐れていたくせに、今では入れ続けることや手入れしないまま入れることに抵抗を覚えなくなってしまった。なんとも人間の慣れというのは面白いものだったりする。最近では、外してケースに入れるだけで、泡が生じて自動でレンズを洗浄してくれるようなキットを買った。これのおかげでレンズを一々擦って洗う必要がなくなった。本当に良い買い物というのは生活習慣を変えてくれるものなんだと思う。

 

食欲と村上春樹の話をしよう。

20を超えてから、そんなに食欲が旺盛ではなくなった。というよりかは以前から食欲が旺盛な方ではなかったが菓子の類は好きだった。蒲焼さんとかおしゃぶり昆布とかの硬い食べ物なら全般好きだった。蕎麦は茹でる前の硬い状態が一番好きで、小さい頃にはよく叱られたものだった。 あとは麺つゆを薄めず生で飲むのが好きだたったし、チョコレートが好きだった。とにかく固くて味の濃いものが好みだった気がする。だが、20を超えてからは甘いものはそんなに好きではなくなったし、菓子類を買うこともなくなった。食事も朝食は摂らなくなったし、夜もあまり食べなくなった。14時頃に暇つぶしに食べるくらい。それでいて痩せるわけではなく寧ろ太りやすい体質になってしまうんだから、人体には後でお灸を据えておく必要がある。無論食事を摂らないのは体に悪い(と世間では言われているらしい)。食欲が出ないときには、村上春樹の小説を読むのが一番効果的だと思う。彼の小説は、嫌いな人にとっては到底受け入れられるものではないと思う。かっこつけていて、事象と事象を変に結びつける嫌いがあり、周囲の女性たちは気づくとどっかに消えているし、大体鳥はうるさいし、大体猫は帰ってくるし、大体未成年の少女は飲酒喫煙しているし、大体主人公はなんやかんや有りの侭の現実を受け入れがちである。僕も小説自体が取り分け好きなわけではない(ノルウェイの森を除く)。その小説が嫌いな人の意見はよく分かるし、批判されていても別に何を思うわけでもない。だが、彼の小説は食欲を増進させることだけは確かである。

主人公は大抵何かのトラブルに巻き込まれる。自分が原因であることはない。意味の分からない運命のようなものに巻き込まれる。それは大抵女性が発端となっている場合が多い。厳密にはその女性たちが原因であることは少なく、ただ媒介になっているだけなのだが。時には腹を切られ、時には職を失い、時には猫が何処かに行ってしまう。そんな状況に翻弄され、主人公ただ一人残された時、彼は食事を摂る。自分で作る場合もあるし、趣味の悪い音楽の流れたカフェの場合もある。彼は土壁のようなサンドイッチを食べ、ただ焼いただけのウインナーを食べる。大抵不味くて味のしないコーヒーを飲む。そのあと二三本の煙草を吸う。グルメ小説ではないから、豪勢な食事も質の良い食事の描写も出てこない。ただ只管に彼はルールとしての生活の一部として食事を摂ってコーヒーを飲んで煙草を吸うのだ。それが何よりも食欲を増進させる。食欲を満たすための食事ではなく、規則としての食事を促してくれる。現代では、食べれば大抵のものは旨いし、飲めば大抵のものはいい味がする。ただそれ以上に、規則としての食事をしたことで自分を肯定させてくれるのが、彼の小説である。(別に食事シーンに限らず、1日数ページは彼の小説を読む。だが別に対象はどんな本であっても別に良い。食事以外に関して言えば、文字であることだけが意味を持っている。)

 

3.11の話をしよう。

もうすぐで3月11日になる。信じ難いことに、あの日から10年が経つらしい。10年前のあの日、小学校の卒業式の予行演習が終わり帰りの会をしていたと思う。同じ小学校の人は同じ中学校に行くから、ただ教師が変わるだけの進学である。別に大した思い入れはなかったような気がする。震度6弱~6強の地域に居た。地震は以前からよく起こる場所だったし、岩手宮城内陸地震も経験していた。午後2時46分。小学校だから、地震が起こると机の下に隠れるように指示される。最初の30秒くらいにはちょっと強い位の揺れで、机の下の隠れながらも隣の友人と冗談を言い合っていた。隣の友人が実家の犬を冗談交じりに心配していたのが10年経った今でもよく覚えている。最初の1分間の揺れで隣のクラスの金魚を飼っていた水槽が落ちたらしい(隣のクラスというのは、当然1組のことだ。辺鄙な町の学校だからクラスは2つしかないし、双子である僕は常に片割れと違うクラスで、それは大抵2組だったから)。一度収まった後の再びの第二波の揺れで自分のクラスの窓ガラスが割れた。担任の教師はただ只管にテレビを支えていた(二十数年生きてきた中で、何故かあのテレビを支えている教師の姿以上に面白い光景をまだ目にしていない)。3分だったか4分だったか揺れ続けた後、校庭に避難するように指示された。窓ガラスは散乱していたし、防火扉は閉まっていた。今思うと、なんであの防火扉は閉まっていたんだろうか。あれは揺れで閉まるような仕組みになっていたんだろうか。靴をちゃんと履き替えて校庭に出た。どうせ数週間は校内に入れないことは分かっていたし、お気に入りの靴だったからちゃんと履き替えて外に出た。それから暫くは校庭に居た気がする。生徒は親の迎えを待っていたが、自分の家は山を一つ越えたところにあるから、暫く待つ必要があった。校庭には臨時でヘリポートのH印が石灰で書かれ、救助用のヘリコプターが降りてきた(別にヘリポートの印があるところにヘリが降りてくるのは何も不思議なことではない)。3月も中旬だが、ぱらぱらと雪が降ってきたのを覚えている。東北だから、3月に雪が降ることは取り分け珍しいことでもない。だが、あの日雪が降ってきたのは恐らく特別なものであった気がする。親の迎えが来て、山道を越えて家に帰った。これから覚悟しなさいよという親の言葉は、地震に対するものだったのか、それとは全く関係なくこれからの自分の人生に対するものだったのかは今でも分からない。普段通る道は土砂崩れが起きていて通れなかったため、普段通らない道を迂回して帰った。土砂崩れは、起こってみるとなんとも滑稽な表情をしていた。家の瓦は落ちていて、食器は大抵割れていて、自分の部屋の物は大体床に転がっていた。家族に誰一人として怪我人は居なかった。家の水道は止まっていた。トイレも1日程動かなかった気がする。家の外にある水道は山の水を直接引いているから、最初の数時間は土砂で濁っていたもののすぐに飲水として使えるようになった。テレビでは意味の分からない光景ばかりが流れていた気がする。津波に飲まれながら燃えている光景は、きっとこの人生の内には二度と見ることがないと思う。確かその日の内に震度5の地震が3回程あった。その日だけは、家族で集まって畳の部屋で寝た気がする。ラジオを常に流したままにして。田舎は静かで地面に近い生活をしているから、地震が来る前には地鳴りで100%分かる。これは絶対にそうなのだ。地鳴りが大きくて長い場合には問題ない。大抵揺れは小さくて短い。大きい地震というのは、地鳴りを聞いた次の瞬間には揺れているものなのだ。

当然小学校の卒業式はなくなり、そのまま春休みになった。これまた子供というのは変に几帳面と言うか意味の分からない責任感と言うかを持っているもので、僕は春休みの宿題としてその日以降の新聞をノートに纏めていた。大体は原発のことである。やれ緊急事態になったかと思えば、ある日の朝刊には水素爆発したとかメルトダウンしたとか書いてあった。正直頭は悪い方ではなかったがよく分からなかった。自分の家も避難対象になった(すぐ側まで避難指示で、自分の家は避難勧告だった気がする)。親が子供達の健康を心配したのか、少し内陸の親戚の家にお邪魔することになった。誰にとっても未知の事象だから大事を取るのも無理はない。ところで祖父母は避難せずに自分の家に残った。避難するくらいなら家と諸共という感じなのだろうか。いや、一緒に内陸に行ったんだっけ。あんまり覚えてない。親戚の家で銀魂を読んでパワプロをしたことしか覚えていない。親戚は皆身長高いんだよなぁ、何故か。テレビ番組で見た、瓦礫の山の中でトランペットを吹く少女の映像が忘れられない。あの人も多分、今は20歳を越えているんだろうな。

そのまま中学生になって、高校生になった。家族が死んだわけでもなく家が倒壊したわけでもなく、普通の生活を送ってしまった。高校は推薦で入ってしまったし、卒業するときには成績優秀で表彰されてしまったし、大学受験は浪人してしまった。当時はちゃんとした大人になろうと思って居た気がする。訳もないし、震災に何か影響を受けたわけでもないと思う。だが今の自分の記憶の中の自分で、一番確かな記憶を持っているのが、ヘリポート印の雪の降る校庭で地面に座っていた当時の自分というだけ。うーん、彼にちゃんと説明できる気がしない生活を送っている。

 

 

大学の話をしよう。

浪人した。意味のわからないサークルに入れられた。コンピュータを教えてもらった。成績が良くなくて情報科学科に入れなかった。今でも自分の学科の分野に興味をもてないでいる。CTFを教えてもらった。あまり人に聞けなくなった。最近はSlackが余り愉快ではなくなっている。OS本は緑のやつと青いやつとオライリーのやつでお腹いっぱいだ。でも多分東工大の人のやつは買って棚に飾っておくと思う。

三日坊主が常の自分からすれば、割と長く続いている方だと思う。昔は本を読むのが好きだったからその延長線だと思う。glibc羊をめぐる冒険で、LinuxKernelはノルウェイの森で、QEMU騎士団長殺し。V8は1Q84(つまり、読んだことが無いということだ)。日々数ページ小説を読むのと同じでpwnをやっている。結局は物事の粗を探して揚げ足を取るという遊びだ。でもそれのおかげで少しだけ日々が楽しくなっている。生産性は、何もない。向上意欲がないから自分で作りたいというものが無いんだと思う。だから使い捨てのPoCばかり書いて日々を過ごしている。プライベートリポジトリに車輪の再開発とコードリーディングの屑だけが蓄積する。pwnはただそれにうってつけだと言うだけのことだと思う。昔は自分には到底理解できないコンピュータの話をする先輩達がCTFで競っているのに憧れていた。今は焦燥感からキーボードを叩いている。別に人と比べるつもりは無いらしい。始めたきっかけが、pwnを教えてくれた人に憧れたというだけなのかも知れない。だから、くっきーさんが心から凄いと褒めてくれたら、僕は満足してパソコンを辞めると思う。楽しいが、競い合うだけの頭脳を持ち合わせていない。

 

 

23時に寝る話をしよう。

コロナのせいで喋る機会はずっと減った。前から話上手ではなかったが、生徒会長もやっていたし、それなりに話すのはできると思っていた。だが最近はもう殆ど人と話をすることがなくなっている。頭の中の自分の声と実際の自分の声の相違に大分驚く(実際の声がかなり低い)。ここのところ23時頃に寝るようにしている。起きるのは5時頃だ。起きたら黒い帽子を被ってマスクをして黒いスニーカーを履いて(少し前まではショートブーツのようなものを履いていたが、最近は面倒くさくて履いていない)、高校の時から来ている鼠色のコートを着て外に出る。少し辺りを散歩して、自販機で白いカフェラテを買って部屋に帰る(上京したての頃には、自分の部屋に「帰る」という表現に違和感を覚えていたが、今は帰る以外の表現がない)。ラップトップのキーボードをxinputで殺してその上に無印US配列の黒いHHKBを乗せて叩く。1日に5回は意味もなくsudo apt updateをする。tmuxのプレフィクスはCtr+Fにしている(サーバはCtr+G)。gdb拡張は前までpedaだったが今はpwndbgにしている。ThinkpadがどのPCよりもかっこいいと思っていたが、学科の配布PCがThinkpadと知って少し好きではなくなっている。似非vimユーザだが、それなりの量のコードを書くのにはVSCodevim-bindで使う。使いたくはないが必要になればMacを開く。AndroidStudioとChromeとkernelを開くのに必要だからメモリは32GBまで増設した。だが、今でもkernelは古い東芝Dynabookで読むこともある。キーは数枚剥がれたし、画面は真ん中から割れているし、RAMも8GB、HDDも128GBしかない代物だが、寝ながら読むにはこれが丁度いいのだ。何事にも向き不向きがある。劣っているものが必ずしも淘汰されるとは限らない。そうすると夜は大抵9時には眠くなる。眠くならないときにはアルコールを入れて布団に入る。前まではパソコンはスリープさせないまま、カーテンは開けたまま、ケータイは枕元に置いて寝ていたが、最近はパソコンは必ずスリープさせ(ドライバを変えるまではスリープさせると必ずバグって起動しなくなっていた)、カーテンはちゃんと閉めて、ケータイは手の届かない机に置いて寝るようになった。この時間に寝るのが健康的かどうかは分からない。結局睡眠時間自体はほとんど変わらない。ただ、世間が起きる前にはちゃんと起きていたいと言うだけなのかも知れない。

 

 

 

書き始めたのが21:20。今の時刻が21:45。書き始めに飲み始めた500mlのレモンチューハイを丁度飲み終わった。寝る。

 

 

 

 

 

続かない